院長紹介
医師としてのスタート
生まれは岡山県倉敷市で、地元の医科大学を卒業しました。医師のスタートは、岡山市内の川崎病院で整形外科医としてです。
その当時は、いわゆる"交通戦争"の時代で、交通外傷が多く、整形外科≒外傷外科でした。約800床の病院で、整形外科は180床を有し、病院の看板科目でした。月曜から金曜は1日5~6件の手術を行い、昼食は弁当を10分で立って食べていました。約20年間勤務し、整形外科医長として退職しました。
精神科医への道のり
その後は縁あって和歌山県海南市へ転居しました。
整形外科での激務と環境変化が原因したのか、深刻な精神的不調となり、約2年間ほど完全休職し、何とか寛解しました。
この休職期間を使い、インド旅行、四国八十八カ所巡礼し、宗教(仏教)に強く興味を持ち、高野山普賢院の森住職先生(内科医で僧侶)と出会い、約1年間高野山で修行し、真言宗の僧侶資格をとりました。僧侶として生きることも考えましたが、落ち着いて考えた時に、自分にはやはり医師の道しか考えられず整形外科で"体"、高野山で"魂"を勉強してきたので、医師人生の後半は"心"を扱う精神科の道に進むことを決めました。
ある偶然で和歌山市東部にある精神科病院田村医院の木下院長先生と出会い無理をお願いして、0から精神科医学の勉強をスタートしました。
はじめはデイケアの患者さまの相手で一緒に1日遊んでいました。外部の方が見れば、僕も患者さまの1人に見えたと思います。
その後いろいろ苦労もしましたが、周囲の助けもあり53歳にして精神保健指定医、精神科専門医の資格をとることができました。
開業の決意
その後も田村病院に勤務し、60歳ぐらいで精神科クリニックを開業しようと思っていました。ところが、人生うまくいがないもので、60歳を前にして、和歌山医大で命に関わる身体的病気の診断、宣告を受け、5年後生きている確率は20%と言われ(何とか内服薬のおかげで今も生きています)開業は断念しました。
その後も大阪で何カ所かの精神科病院に勤務しました。
最後に勤務したのが、梅田の精神科クリニックで、ここで約1年余り外来担当しましたが、これが大変貴重な経験で、1年で今までの10年分の精神医学の勉強をしたような、外来診療をさせていただきました。
私の今後の研究、診療の主体としたい成人の発達障害と双極Ⅱ型障害の非常に多くの患者さまと外来でお話し、貴重かつ印象的な1年間でした。
この貴重な経験を活かすため、今回70歳を超えてのメンタルクリニックの開業を決めました。
仏教的精神医学への想い
時代ははからずも、"心の時代"また"精神的不調の患者さまの急増"という時代となり、メンタルクリニックの数も急増しています。
正直言って、精神科の病気は、原因の特定が困難(検査の方法がない)、薬物療法での完治も困難(薬は症状軽減には役立ちます)という難しい医学分野です。
私見ではありますが、精神科医の究極の仕事は患者さまとの人間としての対話を通して、仏教的言葉を使わせていただくなら、
- 病との共存と共生
- 諦観(≒あきらめる、明らかにする)
このあたりにあると思います。
自分が経験し、学んできた、"仏教的精神医学"を通して、微力ながら和歌山の患者さまのお役に立つことが少しでも出来ればと思っております。
何卒宜しくお願いいたします。
みそのメンタルクリニック 精神科・心療内科
三宅 康裕
略歴
- 1953年
- 岡山県倉敷市に生まれる
- 1972年
- 岡山大安寺高校卒業
- 1979年
- 川崎医科大学卒業
川崎病院整形外科に入局 - 1999年
- 川崎病院整形外科医長で退職
同年、和歌山県海南市へ転居 - 2000年
- 四国八十八カ所巡礼
高野山普賢院にて修行、僧侶資格を取得 - 2001年
- 精神科に転科
和歌山市の精神科田村病院に入職 - 2006年
- 精神保健指定医、専門医を取得
以後、南大阪の精神科病院に勤務 - 2023年
- 大阪梅田メンタルクリニック勤務
現在に至る
資格
仕事関連
- 医学博士号
- 精神保健指定医
- 日本精神神経学会 精神科専門医
- 日本医師会認定産業医
- 高野山真言宗教師
- (元)日本整形外科学会 整形外科専門医
趣味関連
- ダイビングPADIインストラクター
- ワインアカデミーデュヴァン 修了
- 小型船舶一級免許
- (元)日本スキー連盟準指導員